本の言葉 ~私の読書ノート~

文学、哲学、宗教、自己啓発、ビジネス、脳科学、心理学、男女関係… 500冊の本の名言

『幸福論』 ヒルティ

      2018/03/05

第一部

人生はそもそも「享楽」すべきものではなく、必ず実を結ぶように営もうと心がけねばならぬ。

自己教育を達成することのできるただ二つの「方法」はストア主義とキリスト教とである。

ストア主義は、向上の精神にもえて修業の道にいそしむ青年の魂と性格とに、非常な魅力と鼓舞の力とを与えるものであるが、ところがキリスト教の方は、一応教育を終わった人の、かなり豊かな人生経験と、とくに謙虚のこころを前提としているので、なお修学中の青年には、充分適しないところがある。

不断の魂の平静である。これがストア主義の最高の幸福なのだ。

自分の不幸のために他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、自分を責めるのは、初学者の仕方であり、自分をも他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である。(※エピクテトス)

すべて世間の事柄は、きみの欲するままに起これよ、と望んではならない。むしろ世に起こることは、その起こるがままに起これ、と願うがよい。そうすればきみは幸福であろう。(※エピクテトス)

真に人生の真面目に適合する二つの人生観、すなわちキリスト教とストア主義との差別は、簡単にいえばこうである。ストア主義は人生の苦難を否定し、常にすぐれた精神力をもってこれを蔑視しようとつとめる。ところがキリスト教の方は、人生の苦難を現実的存在として充分これを承認するが、それと同時に、ある力を人に与え、より高い、より内的な幸福を約束して、それによってその苦難を堪えやすくし、いな、むしろそれを無意義にさえするのである。

きみはある戯曲において、作者がきみを通じて演出しようとする一定の役割のにない手であることを忘れるな。(※エピクテトス)

人生の最も美しい目的は、できるだけ多くの善事を行なうことである。

ある程度孤独を愛することは、静かな精神の発展のためにも、また、およそ真実の幸福のためにも、絶対に必要である。

現代青年の教育はまさにこの点から、つまり厭世思想の克服から始められねばならぬとわたしは信ずる。

旧約聖書も新約聖書も、人間に向っては、このようなただ一つの「回心」――ただ一つの意志活動――を要求するだけであって決して「改善」を要求してはいないのである。この意見によれば人間は元来、自分を改善することも、改善されることもできないものであって、ただわずかに、自分自身を脱却して、より良い性質をさずかり得るだけである。ここにキリスト教の全秘密がある。

何といっても人生は、愛なしには、特に青年時代が過ぎ去ったあとは、きわめて悲惨なものである。

愛なしに生活して、四十歳に達してなおペシミストにならない人は、よほどどうかしている。

仕事は、人間の幸福の一つの大きな要素である。

幸福追求者のなかで最も奇妙なものは、おそらく厭世主義に求める者であろう。

幸福の第一の絶対に欠くことのできない条件は、倫理的世界秩序に対する堅い信仰である。

<第一部の結論>

「幸福とは神と共にあることである。これに到達する力は魂の声なる勇気である」地上にはこのほかの幸福はないのである。

要するにこれがこの哲学(仏教)の結論である。人間生存のためには光も希望も存在しない。一番よいことは、この理をすみやかに悟って、できるだけ早くこの生を終えることだ。

一切の存在および生成の根源としての神は、説明することも証明することもできない。また、そうすべきものでもない。むしろわれわれは、まず第一に神を信じ、その上で身をもって経験しなければならぬ。

第二部

(罪と憂い)この二つをとり除くことこそ、本来、幸福を求める人間のあらゆる努力の要点であり、主としてこれを目指さないような哲学も、宗教も、経済も、政治も在りえないのである。

打ちかちがたい憂いはたいてい、ひそかな無神論の証拠である。

われわれが憂いを持たねばならないのは三つの主な理由からである。
――第一に傲慢や軽薄にならぬためである。
――第二の理由は、他人に対して同情を持つことができるためである。
――第三の理由としては、神を信じその助けを求めることを力強くわれわれに教えてくれるのは、ただ憂いのみだからである。

(※憂いに対する対抗策)こういう手段のうちで最も手近かでしかも最も有効なのは仕事である。

われわれ市民階級が、憂いや、往々それよりさらに悪いものを、自分の生活のなかから排除したいと願うならば、もう一度簡素な生活様式に立ちかえり、享楽の哲学をみずから進んで捨て去ることが必要であろう。

憂いからのがれる最もいい方法は、さしあたり、他人の憂いに気を配るように努めることだ。

多読ということは、実際今日では、一般的教養にぜひとも必要である。完全な教養をそなえた人になるには、本来次ぎのようなことが要求せられる。すなわち、比較的長い生涯を送った人であれば、その間に、真にすぐれた文学作品はのこらず自分で読んでおり、なおそのほか、人間の知識のあらゆる部門について少なくともある程度の一般的な正しい概念を得ていて、「人間に関することで全然知らぬものはない」くらいになっていることである。

高貴な魂は、根本的に厭世的な気分に陥ることのないものである。厭世家は大抵、むしろ小さすぎる生まれつきの魂であって、人生の最高の宝をもとめて勇敢に奮闘することもできず、またそれに必要な力と忍耐とをもってその宝を手に入れることができない。

子供たち、特に息子の教育と性格形成にとって、家庭のなかでは母親が決定的な要素であること、また息子は、一般に父よりも母に似るものだということは、いまさら言う必要もあるまい。これに比べて、あまり知られていないのは、男の子がその性格や素質の点でしばしば母親の兄弟に似ること、そして、子供たちを育てるのに母方の祖母が最も適任であるが、また、場合によってはもちろん最も危険なものになる、ということである。

勇気ある青年なら誰でも知っていることだが、人生はいつもただ「ひっそりともの思いに沈んで」いるために在るものではない。また、やるせない歎きや、魂の力をすりへらす厭世主義によってやつれ果てるために在るものでもない。

第三部

「幸福の種類には二たとおりある。一つはつねに不完全なものであって、この世のさまざまな宝をその内容とする。いま一つは幸福な完全なものであって、神をのそば近くあることが即ちそれである」

人生のまことの補強工事とは神のそば近くあることと、仕事とである。

汎神論的神、はっきりいえば、存在する一切の物の総体である自然には、われわれにとって最も理解されやすく、かつ最も必要な神の属性がことごとく欠けている。正義や忍耐や憐れみや愛は、一体そのような自然のどこに宿るのであろうか。

この謎のような人生をのり切って行くには、おもな道はおよそ四つしかない。宿命論か、克己主義か、利己主義か、信仰かである。

すぐれた文学、同様にまた、ほんものの芸術はすべて、苦悩から(情熱からではなく)生まれる。苦悩がなければ深さを欠くことになる。同じように政治も、人生の明るい面だけしか知らない人たちの手で行なわれるときはみじめな職業である。およそ苦しみなしに真に力づよい生活を送ることは、まったく不可能である。親愛なる読者よ、そうした力強い生活か、それとも希望のない凡庸さか、どちらかを選びたまえ。

苦しみは人間を強くするか、それとも打ち砕くかである。その人が自分のうちに持っている素質に応じて、どちらかになる。

苦しみを人生のきわめて本質的な、そして必須な部分だと見なして、この確信をもってみずからすすんでそれを受け入れないうちは、人間の性格はまだ十分に成熟していないのだ、ということは確かである。

どんな人についても、その人が苦しんだことがあるかないかは、ただちに見てとることができる。苦しみの跡のない顔は表情がない。

苦しみは人間存在の不可欠な部分であって、あらゆる人生は苦しみに始まり苦しみに終る。

人生の究極の言葉は、本来からすれば、幸福ではない。いずれにせよ、享楽の意味での幸福ではなく、克服である。

仕事は人間の義務であり、使命でもあって、それを果たさなければ、この世では精神的にも肉体的にも健康な生活をすることができない。仕事を避けてただ無為な生活を送ろうとしたり、少なくともできるだけ早く、「引退したい」と願う人は最大の愚か者である。

ことに強度の神経衰弱は、ほとんど常にといっていいほどのさばり放題にのさばった利己心と結びついている。








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